2013年10月22日火曜日

三遊亭圓朝『落語の濫觴(らんしょう)』

 前回お約束の圓朝ものをひとつ。『落語の濫觴』です。濫觴は、らんしょう、と読み、はじまり、とか、起源の意。
 以前このブログで、『落語家の祖』という稿を書きました。その折は、ウィキペディアを丸パクリで書いたのですが、よくよくこの『落語の濫觴』を読んでみると、ウィキの述者は、この『落語の濫觴』を丸パクって、書いていたようです。いやあ、縁がありますわ。
 ということでさっそく。


落語の濫觴

三遊亭圓朝

 落語の濫觴は、むかし狂歌師が狂歌の開きのときに、互いに手をつかねてツクネンと考えこんでおっては、気が屈します。そこで、その合間に世の中の雑談を互いに語りあって、一時の鬱をやつたのが、はじまりでござります。

 なお、その前にさかのぼつて申しますると、太閤殿下の御前にて、安楽庵策伝という人が、小さい桑の見台の上に、宇治拾遺物語のようなものを載せて、お話をしたという。
 これは、皆さまも御案内のことでございますが、そのとき豊公の御寵愛をこうむりました、鞘師の曾呂利新左衛門という人が、このことを聞いて、私もひとつ、やってみとうござる、というので、おかしなお話をいたしましたが、策伝の話より、いっそう御意にかない、その後たびたび御前に召されて新左衛門、種々、滑稽雑談を演じたという。

 それよりのちに、鹿野武左衛門という者が、鹿の巻き筆というものをこしらえ、また露野五郎兵衛というものが出て、露物語でございますの、あるいは露の草紙というものができました。それきり絶えて、この落語というものはなかったのでございます。

 それよりくだって、天明四年にいたり、落語というものが再興いたしました。
 これは前にも申しました通り、狂歌師が寄つて、狂歌の開きをいたす時、なにかお互いにおかしい話でもして、わっと笑う方がよかろうというので、二三回やってみると、とんだ面白いので、毎月やろうという事にあい成り、蜀山人、あるいは数寄屋河岸の真顔でございますの、談洲楼焉馬(だんしゆうろうえんば)などというすぐれた狂歌師が寄って、ただ落語をこしらえたまま開いてもおもしろくないから、やはり判者を置く方がよかろうというので、烏亭焉馬(うていえんば)を判者にいたし、そこで狂歌師の開きと共にこの落語の開きもやろうという事になり、談洲楼焉馬が判者で、四方の赤良(よものあから)が補助という事で、ちらしを配ったが、向島の武蔵屋の奥座敷が静かでよかろう、ちょうど桜も散つてしまった四月二十一日ごろと決したが、そのちらしの書き方がまことにおもしろい。

 「このたび向島の武蔵屋において、昔話の会が権三(ごんざ)りやす」

  と書いた。これは武蔵屋権三郎をひっかけたのだが、何日とも日がしたためてないから、幾日だろう、不思議な事もあるものだ、これは落字をしたのかしら、忘れたのではないか、と不審を打つ者があると、数寄屋河岸の真顔が、「いやこれは大方、二十一日にちであろう。『昔』という字は、廿一日と書くから、まあ、二十一日に行って見なさい。
 なるほどと思つて、当日行ってみると、のぼりなどをたて、盛んに落語の会があったという。してみると、無理にひとに聴きかせよう、というわけでもなんでもなかったのでござります。

かかる事はわたくしも、さっぱり存ぜずにおりましたが、かの談洲楼焉馬がしたためた文によって承知いたしました。その文に、

 「それ羅山の口号に曰く、万葉集は古詩に似たり、古今集は唐詩に似たり、伊勢物語は変風の情を発するに贋たり、源氏物語は荘子と天台の書に似たりとあり。ここに宇治拾遺物語といえるは、大納言隆国卿皐月より葉月まで平等院一切経の山際、南泉坊に籠もりたまい、あうさきるさの者のはなし、高き賤しきをいわず、話に従い大きなる草紙に書かれけり、貴き事もあり、哀れなる事もあり、少しは空物語もあり、利口なる事もありと、前文に記し置かれたり、竹取物語、宇津保物語は噺の父母にして、それより下つ方に至りては、爺は山へ、婆は川へ洗濯、桃の流れしということをはじめ、そのはなしの種、夭々としてその葉は秦々たり。されば竹にさえずる舌切雀、月に住む兎の手柄てがら、いづれか噺に洩れざらん、力をも入れずして頤(おとがい)のかけがねをはずさせ、高き花魁の顔をやわらぐるもこれなり。このはなし、いつぞや下の日待ちのとき、ひらきはじめしより、いざや一会、もよおさんと、四方赤良大人、朱楽管江大人、鹿都辺真顔、大屋の裏住み、竹杖の為軽(すがる)、つむりの光、宿屋の飯盛をはじめとして、向島の武蔵屋に落語の会が権三り升と、四方大人の筆にみしらせ、おのれ焉馬を判者になれよと、狂歌の友どち一百余人、戯作の口を開けば、遠からん者は長崎から強飯のはなし、近くば、よつて三升の目印し、門前に市をなすにぞ、のど筒の往来かまびすしく、笑う声、富士筑波にひびく。時に天明四つの年、甲辰、四月廿一日なり。それより両国尾上町、京屋が楼上に集会すること十歳あまり、これを聞くものおれわれに語り、今は世渡るたっきともなれり、峨江はじめはさかづきをうかめ、末は大河となる噺も末は金銭になるとは、借家を貸して母屋を取らるるたとえなるべし、とはいえ、これも大江戸のありがたき恵ならずや。

よいおとし噺も年も七十の
         市が栄へて千代やよろづよ
文化十癸酉春
                 談語楼銀馬のもとめに応じて


                                           七十一翁、烏亭焉馬
                                            於談洲楼机下述印」
 
 
 右は軸になっておりますが、三遊亭一派の共有物として、わたくしは門弟どもの方へあずけておきましたけれども、これは河竹黙阿弥翁が所有されていたのを、わたくしがもらい受けました。それ故、箱書きも黙阿弥翁にしたためて貰いましたが、この文中にもある通り、十有余年、昔話がはやったことと見えまする。

 それ故、誰も彼も聴きにまいるなかに、可楽という者があって、これは櫛職人でござりましたが、いたって口軽なおもしろい人ゆえ、私も一つとびいりに落語をしてみたいと申しこんだ。
  
 するとこの狂歌師のなかへ職人をいれたら品格が悪くなるだろう、と拒んだものもあったが、なに職人だって話が上手なら仔細ないという事で、可楽をいれてやらせて見た所が、たいそう評判がよろしく、可楽が出るようになってから、ひときわ聴き手がふえたというくらい。

 そこで可楽がふと考えついた。

可楽:『これはおもしろい。近頃、落語がだいぶはやるから、どこかで座料を取って、内職にやつたらおもしろかろう、事によつたら片商売なるかもしれない』

 と、昼間は櫛をこしらへ、夜だけ落語家でやつてみようと、これから広徳寺前の○○茶屋というのがござりまして、その家の入口へ行燈をかけたのです。
 
 ただ「はなし」と書き放しにして、名前などを書いたものではない、細い小さな行燈を出して、いらっしゃいいらっしゃいというと、大都会のことだからすぐに御武家がひとりはいってきて、

お武家:『早くしてくれ』

可楽 :『ええ、もう二三人おいでになるとじきに始まります』

お武家:『もう二三人来るまで待ってはおられぬ、腹が減ってたまらぬのじゃ』

 これは、菜めしとまちがえた、という話です。

 その頃は商売ではなかったから、それくらいのものでござりましたろう。
 
しかるに、当今にいたっては、寄席商売というものがたいそう増えて、かように隆盛にあいなったのでござります。








2013年10月8日火曜日

圓朝のこと

 たいへんおこがましいのだが、圓朝について書いてみる。とりとめもなく、紆余曲折しながら進んでいくので、ご容赦を。

『初代三遊亭 圓朝は、三遊派の総帥、宗家。三遊派のみならず落語中興の祖として有名。敬意を込めて「大圓朝」という人もいる。現代の日本語の祖でもある』

 これは、おなじみウィキペディアの『三遊亭圓朝』の最初の説明である。では次に『三遊亭圓生』をひくと、

『三遊亭 圓生(さんゆうてい えんしょう)は、落語家(江戸落語)の大名跡の一つ。三遊派の流祖、本家。古今の多くの落語家が名乗る「三遊亭」の亭号の源流。6代目の死後、現在に至るまで空位』

 宗家と本家の違いを説明しろ、あほんだら。しょっぱなからウィキペディアの乱暴な文章に腹を立てていてもしょうがないのだが、ひどすぎる。
 そもそも圓朝は、2代目圓生の弟子なのだから、宗家が本家に弟子入りするのはいかがかと思う。圓朝が三遊亭の宗家である理由をウィキペディアに求めると、『圓朝は落語中興の祖である。それゆえに三遊亭の宗家である』冗談ではなく、そう記されている。

 別にウィキペディアにケンカを売っているわけではないのだが、もうひとつ。『圓朝は現代日本語の祖である』という記述。この意味を求めると、

『近代日本語の特徴の一つである言文一致体を一代で完成させたことから近代の日本語の祖とされる。明治時代に速記法が日本に導入されたころ、圓朝は自作の落語演目を速記にて記録し公開することを許した。記録された文章は新聞で連載され人気を博した。これが作家二葉亭四迷に影響を与え、1887年「浮雲」を口語体(言文一致体)で書き、明治以降の日本語の文体を決定づけたのである。のみならず現代中国語の文体も決定づけた。魯迅は日本留学中に言文一致体に触れ、自らの小説も(中国語の)言文一致体で綴った。すなわち白話運動であり、ここで中国語は漢文と切り離されて口語で記されるという大改革がなされたのである』

 長々と書かれると、 惑わされてしまいそうだが、つまりこうだ。

1.落語の速記を新聞に載せるのを許した。(落語なのでもちろん口語体)
2.二葉亭四迷がそれを真似して口語体で『浮雲』を書いた。
3.口語体の小説、文章が主流になった。

 圓朝がしたことは、新聞社に自分の落語の速記の掲載を許可しただけである。

 これ以上続けると、落語中興の祖まで嫌いになりそうなので、ここらへんでこの話はおく。

 そもそもどうして圓朝の話を書こうとしたのかというと、青空文庫(インターネットの無料図書館
http://www.aozora.gr.jp/index.html)で、圓朝の著作を目にしたからである。

 6代目圓生好きの私には、『文七元結』やら、『敵討ち札所の霊験』やら、長い噺は圓朝ものとしておなじみだが、いまでもよくつかわれる短い小話なんかも圓朝作のものがあって、なんだか感心してしまった。圓朝を書こうとした理由は、まあそんなところ。

 圓朝の偉さは、前述のウィキのようなとってつけたことではなく、その膨大な作品群にあるのだと思う。

 しかし、それを読もうとすると、かなり骨が折れてしまう。もちろん口語体で書かれている。だが旧仮名遣い。漢字にはすべてルビがふられ、改行はほぼない。こんな感じである。

『えゝ一席いつせき申上まうしあげます、明治めいぢの地獄ぢごくも新作と申まうす程ほどの事でもなく、円朝ゑんてうが先達せんだつて箱根はこねに逗留中とうりうちう、宗蓮寺そうれんじで地獄極楽ぢごく/\らくの絵ゑを見まして、それから案あんじ附つきましたお短みじかい落語おとしばなしでございますが、まだ口慣くちなれません…』

 コピーしたらルビが漢字の横になってしまったが、読みにくさはお分かりだろう。

 思うにこれはもったいない。せっかく圓朝の作品をただで読めるのに(死後50年たてば著作権はフリー)、これでは読みにくい。そこでこの私が、読みやすくなおしてあげようではないか。

 むろん、能力と根気のないわたしだから、どこまでできるかわからぬが、とりあえず今日はひとつご紹介。

圓朝作『吝嗇家(しわんぼう)』

 ごくしわい人がございまして、
旦那「小僧や」
小僧「へえ」
旦那「おとなりへいつて蚊帳の釣り手を打つんだから、かなづちを貸してくださいとそういつて、借りてこい」
小僧「へえ……いってまいりました」
旦那「貸してくれたか?」
小僧「あの、お隣で、なんの釘を打つんだと申しますから、蚊帳の釣り手を打つんですから鉄釘で御座ございましょうと申しましたら、鉄と鉄との摺れ合いでかなづちが減るから貸せないと申しました」
旦那「むーん、けちな奴だ……じゃあ、うちのを出して使え」

この調子で長い噺をなおしていったら、何十年もかかりそうだ。こわいこわい。



 


 
 

2013年9月19日木曜日

志ん朝論

 前回、馬生を取り上げたので、ではでは、今回は志ん朝ということで。…あっ、最初にいっときますが、タイトルは、「慎重論」とかけているだけです。むずしいことは申せません。

 古今亭志ん朝と聞くと、なぜかもやもやとした気分に陥ってしまう。兄の金原亭馬生の場合は、ひいきもあるのだろうが、笑いがこみあげてくる。ところがこちらの場合は、まゆをひそめ、首をかしげ、考え込んでしまう。

 嫌いなのか、と問われると、また首をかしげてしまう。この人の噺で、好きなのも多い。でもなにか腑に落ちない。なんなんだ、この感覚は。
 
江戸落語四天王などと呼ばれていた談志、圓楽、圓蔵(柳朝は知らない)、志ん朝のうちだれが好きか、と問われれば、志ん朝以外全部嫌い、と答える。さりとて、志ん朝が好きとは、なぜか言いたくない。

 いつまでも首をかしげていても仕方がないので、推論してみよう。

1.めぐまれすぎている
 
・父親が志ん生だ、というのが一番恵まれていることだろうが、それは馬生も同じだ。
・入門5年で真打にスピード出世。「圓朝」を継ぐのはこの人だ、などとまで志ん朝をほめていた8代目文楽のヒキで。はっきりいってこんな話は知らなかったので、私のもやもや感とは無関係。

2.テレビタレント

・さきほどの江戸落語四天王の話だが、4人が4人とも、なんだか落語家というより、タレントっぽい。それほどテレビでの露出が高かった。談志は偉そうで嫌い。圓楽は話が詰まらん。圓蔵(柳朝は知らん)は生理的に受け付けない。まともなのは志ん朝だけだが、タレントっぽいから好きじゃないのか? では西のほうの米朝さんや枝雀はどうなのか。こちらもテレビでの露出はかなりある。これも理由ではないか。

3.もうつかれた

・うっ、あぶないあぶない。こんなふうに段落打って書いてると、ほんものの志ん朝論になってしまうとこだった。私の志ん朝に対する腑に落ちない感は、あなたのコメントにたくします。どうぞ私に教えてたもれ。コメントお待ちしてますよ。
 
 ということで、うやむやのうちに終わってしまおうとしていますが、おわびに私が聴いた志ん朝で、よかったものをご進呈。こちらは腑に落ちますよ。

『愛宕山』 東西でいろんな人が演じてますが、志ん朝のが一番好きだな。




『四段目』 芝居好きの小僧さんと志ん朝がどんどん同一化してくるさまは圧巻。


 なんでえ、好きなんじゃねえか。


2013年9月9日月曜日

LOVE馬生

  10代目金原亭馬生が好きだ。別に宣言しなくてもよいのだが、好きなんだからしょうがない。もちろん、弟の志ん朝よりも。
 馬生との付き合いは、さほどに長くない。父親の志ん生や圓生、枝雀、小三治、4代目圓遊、6代目柳橋と、好きな落語家は多いが、彼らとはもう何十年と付き合っている。もちろん、録音を聴いているというだけなのだが。なぜか馬生はスルーしていた。
 ひとつは、志ん生志ん朝の名が大きすぎたからなのかもしれない。まったく陰に隠れてしまっていた。落語についてそんなに知識もなく、ただ聴いて笑ってただけの自分には、馬生の存在は薄かった。
 唯一持っていたのは、これ
 
これを聴いても、なんだかすっとんぼけたひとだなあ、と思っただけだった。
 ではなぜ好きになったのか、これやこの、まあ要するにYouTubeですよ。ほんとにありがたいです。ではここで、あなたもきっと馬生にはまるベスト3をご紹介。

 第3位は『吝い屋


 ケチの話は、圓生もいいし、4代目圓遊もいい。だが、この人のは、なんだか次元が違っている。その意味は、まあ、お聴きなさい。
 続いて第2位は、『笠碁』

 
馬生はいいなあ、と、いつ聴いても思えてしまう。馬生の演ずる人間はすべて愛らしい。
 堂々の第1位は、『うどん屋』

 
愛すべき酔っ払い。愛すべきうどん屋。馬生は、人間賛歌なり。聴かなきゃ損ですよ。


 このブログの第1回目にとりあげた、志ん生と圓生が満州に渡った話だが、志ん生が満州へ行くと、家族に告げたとき、唯一賛成したのが馬生だった。

「嬶と娘は、敵が上陸してくる噂がしきりのこの時期に満州行きなどとんでもないと猛烈に反対したが、倅(馬生)は逆だった。竹槍で戦おうという時に親父が酔っぱらっていては隣組に申し訳ないし、第一足手まといになる、東京で死のうとどこで死のうとおんなじことだ、ここは一つ空襲のない満州に行ったほうがいいというのでその気になったのである」(志ん生談)

 しかし、のんきな父親が2年も中国から引き揚げてこず、その間家族を養ったのは馬生本人だった。
 父親からは少しも稽古をつけてもらえず、ほかの師匠から稽古をつけてもらったり、自己流で噺を練りこんだりと、独自の芸風を磨き上げ、三遊派栁派のネタを多く持った。

 それだけ苦労しても、『志ん生の名は志ん朝に譲る』という父親の意をくみ、「志ん生」は弟に継がせると約束していたそうだ。名に執着はないということか。
 ではなぜ出囃子を、『鞍馬』から、晩年になって、父親と同じ『一丁入り』にかえたのか?

 酒しか口にせず、栄養失調になっていたほどの酒好き。1982年、54歳で永眠。死因の食道癌も、きっと酒のせいだろうね。

 もうすぐ9月13日。馬生の31回目の命日。『うどん屋』でも聴きましょうか。


 

 

 
 





2013年8月31日土曜日

落語家の祖

はち:「ごめんください」
隠居:「おっ、どうしたい、しばらくお見えがなかったな」
はち:「すっかりご無沙汰しちまいまして」
隠居:「いやあもう、ぶさたはけっこうだよ。なんでも人はご無沙汰をするようじゃなきゃいけねえ」
はち:「へえそうですかい」
隠居:「そうだよ、つまりご無沙汰するということは体に暇がない。体に暇がないということは商売が忙しい、したがってごぶさたをする。けっこうなこった」 
はち:「そうでもねんですがねえ」
隠居:「きょうはどうしたい」
はち:「じつは困ったことができましてね、ちょいと相談にめえったんです」
隠居:「こまったこと? どうした」
はち:「このごろはどうも不景気でいけねえ、なんかいい儲け口はねえもんかと、探して歩いてたんですよ」
隠居:「なにかあったか?」
はち:「あったもなにも、悪い野郎に騙されちまいましてね、そいつのいうことには、これからはブログってえのが儲かると、こういうんですよ」
隠居:「なんだい、ぶろぐってのは?」
はち:「まあくわしくはアッシも知らねんですがね、なんでもいいから文を書いて、それを他人様が読むと、金になるらしい」
隠居:「へえ」
はち:「でね、さっそくはじめたんですよ」
隠居:「どんな文を書いた?」
はち:「アッシもこの通りだから難しいことはいけねえ、何にするかほとほと考えました」
隠居:「なににした?」
はち:「へえ、落語だったら、暇がありゃあ聴いてるから、落語のことを書きました」
隠居:「ふむふむ落語か。で、儲かったか?」
はち:「そっちのほうはぜんぜんで」
隠居:「まあ、そんなにうまい話は転がってないな」
はち:「儲からねえんならやめちまえばいいか、なんて思ったんですけどね、アッシの文を読んでくれた人も少しはいたんでね、なんだかやめられねえ」
隠居:「人情だな」
はち:「1回目、2回目、と書いたんですがね、あとが続かねえ」
隠居:「書くことがないか」
はち:「そうなんです、よくよく考えてみますと、アッシは落語のこと、よく知らねえんです」
隠居:「乱暴な奴だな、知らないのを書いていたのか」
はち:「そこで今日は隠居に落語のことを教えてもらおうと」
隠居:「こっから本題だな。ここまで長くないか? だいじょうぶか?」
はち:「だいじょうぶでさあ」

隠居:「で、何が聞きたい」
はち;「ここはひとつ、落語とか落語家の始まりとか、そっからもう、聞きたいんで」
隠居:「世に落語の始まりはおおよそ千年前、『竹取物語』や、『今昔物語』『宇治拾遺物語』などの説話であると、いわれておるな」
はち:「へ? なんですそりゃあ」
隠居:「『竹取物語』ってのは知っておるだろう、かぐや姫のあれじゃ。日本最古の物語といわれておる。説話というのはだな、ほれ、芥川龍之介がそれをもとに書いた蜘蛛の糸を悪人がよじ登っていく、みたいな話じゃよ。」
はち:「そんなものが落語の始まりですか? おかしいなあ」
隠居:「なにがおかしい」
はち:「だってそれは物語の始まりで、落語の始まりっていうのかなあ。人のご先祖も、サルのご先祖も、犬のご先祖も、もとをたどれば、なんだか虫けらみてえなもんで、同じだってことといっしょじゃねえんですか?」
隠居:「ううむ、ではもう少し時代をくだって、落語家のご先祖様を見てみようかのう」
はち:「へえ」
隠居:「世にいう織豊時代、落語家の祖といわれた人物が二人いた」
はち:「なんですそりゃあ」
隠居:「織豊時代というのは、織田信長や豊臣秀吉がいた時代じゃ。まず一人目は、安楽庵策伝和尚」
はち:「坊さんですか」
隠居:「それもかなり高位で、偉かったようじゃな。策伝の兄は、飛騨高山藩主金森長近といわれておる」
はち:「へえ、でえみょうの弟ですか。そいつはえらいや。で、なんだってそんな偉いのが落語家のご先祖なんで?」
隠居:「この和尚、笑い話が得意でな、説教などにも笑い話を取り入れていたというんじゃ」
はち:「そんな坊さん、掃いて捨てるほどいますよ」
隠居:「まあ聞きなさい。この人が書いた『醒酔笑』というのは、笑い話の本の元祖じゃな」
はち:「自分で言ったお笑いを本にしたの? なんかいやなジジイだなあ」
隠居:「馬鹿にしたものでもないぞ。この本から、ほれ、お前さんも知っておるだろう、落語の『子ほめ』『牛ほめ』、『唐茄子屋政談』、『たらちね』なんていう噺が生まれたんじゃ」
はち:「おっ、だいぶ落語っぽくなってきましたね」
隠居:「この人とゆかりのある岐阜市では、毎年、『全日本学生落語選手権策伝大賞』というのが開催されておる」
はち:「へえ、ってことは世間じゃあだいぶ、この人が落語家のご 先祖ってことになってるみてえですねえ。で、もうひとりってのは?」
隠居:「もうひとりはな、豊臣秀吉のお伽衆曽呂利新左衛門じゃ」
はち:「おっ、それは知ってますぜ。もとは刀の鞘の職人で、そいつが作った鞘は刀ががそろりとおさまる、とかいう野郎でし    ょ?」
隠居:「確かにその人じゃ」
はち:「なんだってそんな職人が、落語家のご先祖なんで?」
隠居:「人を笑わせるのが得意でな、頓智頓才があったようじゃな」
はち:「へえ、どんな?」
隠居:「あるとき主人の秀吉が、自分の顔が猿に似ているのを嘆いたそうじゃ。それを見たお伽衆の新左衛門『猿のほうが殿下を慕って顔を似せているのです』と言って秀吉を笑わせたそうじゃ」
はち:「とんち彦一みてえな野郎ですね。そういうのは落語家というんですかねえ」
隠居:「ほれ、考えてもごらん。新左衛門はこの才能で、秀吉から扶持をもらっている。笑いで金を稼いだ最初の人間ではないかの」
はち:「そうですかねえ、人を笑わせる芸人なんてのは、大昔からいたような気がしますがねえ」
隠居:「ではもうすこし時代をくだって、落語家らしい最初の人間を見てみようか」
はち:「だいぶ長居をしちまいましたんで、それはまたの機会で。さっそく今日の話をブログに書き込んでめえりやす」
隠居:「そうかい、またおいで」
はち:「まったく、うぃきぺでぃあってのも、信じていいんだか悪いんだかわからねえ話が多すぎるなあ」
隠居:「おいおい、ネタを割るんじゃないよ」
       
      ♬てけてんてんてんてん

2013年8月19日月曜日

小三治と枝雀

前回、圓生と志ん生という落語界の巨人ふたりをとりあげた。なにか、正反対に見える落語家が、終戦後すぐの中国の街をふたりでうろうろしていたかと思うと、笑いがこみあげてくる。このふたりは、誤解を恐れずに言い切ってしまえば、歴史時代の名人二人である。
 では、現代の名人を二人上げよといわれれば、10代目柳家小三治と2代目桂枝雀に他ならない。志ん朝枝雀じゃねえのかよ、談志はどうした、などといわれる方もいるだろうが、まあ、そういうかたはおいていく。
10代目柳家小三治 本名:郡山剛蔵(こおりやまたけぞう)
1939年12月17日(73歳)
2代目桂枝雀 本名:前田達(まえだとおる)
1939年8月13日~1999年4月19日(満59歳没)
 この同い年のふたりには圓生志ん生がもっていたような、因縁があった。

 枝雀が死んで、その追善公演の時に東京から唯一呼ばれたのが、小三治だった。上方の大御所たちが会場の暑さとライトの熱気から汗みずくになっているのに、青白い顔をして、汗もかかずに
「この人のこと、よく知らねえんです」
と、切り出す。
「アッシは、酒もあんまり呑まねえし、付き合いもそんなにしないほうだから、この人のことよく知らねえんです。だから、なんで呼ばれたんだか、わからねえ」
 だが、内実は少し違ったようだ。この時のことを枝雀の師匠の米朝さんが語っている。
「……また具合(鬱病)が悪くなって……私があれを呼んだり、向こうから相談に来たこともあるけど、責めるようなことも言われへんし、私はそういう経験がないから、何とも言うてやれん。その点、柳家小三治とは話が合ってね、随分話をしたらしい。枝雀の追善会のとき小三治がやって来て、「個人的なことを言えば『うまくやりやがったな』と言いたい。ずるいよ」て言ってね、それが一番印象に残っていますわ」

 また、よく知らないという本人も書いている。こちらは、ちくま文庫の『桂枝雀爆笑コレクション3』の解説から。

「ずい分前。三十年以上前かな。朝日放送の録音で大阪へ行って、楽屋で一緒になった。帰りにちょっとどうです? と誘われた。一杯飲み屋だったか寿司屋だったかはっきりとした記憶はない。ひとに誘われることが億劫なタチの私としては珍しく、あの時くすぐったいようにうれしかった。カウンターに並んであの時どんな話をしたのか憶えがない。ということは大した話題が合ったわけでもなかったろう。私の右隣りに腰をおろしたあなたが時々ふわふわと笑っていたようだったということしか記憶がない。けど何故かこの記憶はうれしい。

あなたを、私は何と呼んでいたろう。あなたとは呼ばなかった。きみでもなかった。枝雀さんとも呼びかけなかった。会えば、お互いにちょっと笑顔になって『よう』とか『やあ』とかだったろうと思う。『ごぶさたしております』とか『しばらくです』なんて切り出すことは
なかった。

 家へ帰ると『今日は小三治さんに会った』と、おかみさんにうれしそうに話したという話は、あなたがそちらへ行ってからあなたのおかみさん、志代子さんから届いた手紙で知った。ということは、おれも同じことを家へ帰ってうちのかみさんに話していたのと同じじゃないか。

あなたに顔を合わせることは、二年に一度、三年に一度てなもんだった。いや、もっと会ってない時もあった。けど、私の心の中にはなにかとあなたが居た。当り前の仲以上の意識で私は感じていたことになる。

これは、何なんだろう。

そんなことについて私はあなたに話したこともない。手紙を出したこともない。ただ、大阪にあいつがいるなと軽い程度で心に懸けていたということだろうか。

なにかについて、じっくり話をしたことなどなかった。
 会って二た言三言ことばを交わせば、いつもそれでよかった。あとはあなたが何を考えているか、わかった。ような気がした。ような気がしただけで、本当はわかっていなかったんだろう。でも、それで満足だった。いい気持だった。その上、あいつもきっとおれと同じように感じているなと思えるのだった。

あなたがこんなに急いでそちらへ行っちまうなんて知らなかった少し前。文我さんといささかのつながりがあったということから、文我襲名披露興行に幾度か招いていただいてお手伝いをさせていただいた。披露口上があるから、この折、何年分かを取り戻すように、あなたにたびたび顔を合わせることになった。同じ楽屋で時間待ちをしていることもあったが、殆んど片言以外、口を利くことはなかった。うれしい時間だった。あなたも私と同じうれしさでいることは伝わってきた。

そんなことどもについて、話をすることはとうとう無いままになった。

おれがどんな力になれるものでもない。それは知っていた。だけど、あなたが死に急いだほんの数か月前。正確には二月頃。あなたを訪ねて、何か話がしたかった。そのころのそちらの状況は何も知るものではない。虫の知らせなどというのは、それは後になって言えることで私は何も知らない。ただ、あなたを訪ねて、訪ねたことがないからどういうお宅に棲んでるかは知らないが、あなたの家の二階で二人で仰向けに寝ころんで、天上を見ながらボソボソと今まで話したこともない心の領域に踏み込んで話をしてみたかった。

 私が心を開いて話せば、きっとあなたも心を開いて話をしてくれると思っていた。いやあなたの心を開けないとしても、私には話をしたい私自身の心の辛さがあった。それを聞いてもらうだけでもいい、楽になれると思った。もう、そんな話を語り合ってもいいと思った。あんなに強くそれを思っていたのに、二月にはと心に思っていたのに、何やかやと私の都合に取り紛れて一本の電話をしそびれてしまった。

 心に残ることである。残念とはこのことを言うのだ。かえすがえすも……。

昭和三十八、九年だったろう。
 落語の東西交流というのがあって、幸いにもまだ駈け出しの私が角座に十日間の出番を授かった。その折に覗いた千日前劇場に当時小米といったあなたの高座を見た。歯切れのよい、トントンと進める噺のリズムの良さ。登場人物が生き生きとうごめいていた。何の飾り気もない。無理に客を笑わせようなんてこれっぽっちもない。あのどぎつい笑いを歓迎するはずの千日前の客席が、この若い噺家の素噺にどよめいていた。大阪にはすごいやつがいるなあ。それがあなたとの初めての出会いだった。あの高座の爽やかな空気感は、あれから四十数年にもなんなんとする今も忘れることが出来ない。

 何年か経って、東京の労音会館での初の二人会。以降忘れたころに一緒の高座がぽつりぽつりとあった。その時分は、大阪の落語界のことは今以上に東京では知り得ない。あれは静岡の清水だったかの二人会で、枝雀の超人気を思い知らされることになる。その日、会場を埋めた観客で、私を目当てに来たのはほんの数人で、あとは全部枝雀だった。いつのまにか枝雀は大スターになっていた。やっぱりかなわねえなあいつには。いいや、いいや、おれはこぢんまりやっていくしかねえや。

けど、また忘れた頃に会うことになるあなたは、『ひさしぶり』と言うこともなく、ちょっと顎を引き気味にして、ちょっとだけうつむき加減で、ちょっと笑顔で目を細めて遠くから近づいて来る。
 『やあ』とか『よう』とか、すぐそばでしか聞こえないような声を掛け合った」
 

この稿の参考になればと読んでいたのだが、つい、全文引用。天才二人。




再生リスト:2代目枝雀
http://www.youtube.com/playlist?list=PLxo1b5URKLWk2Dcafzbvlgvh6t32cWifO

再生リスト:10代目小三治
http://www.youtube.com/playlist?list=PLxo1b5URKLWmC-EmtQpZiFc-Aqaj8s_Fw


2013年8月14日水曜日

圓生と志ん生

 1945年8月15日、5代目古今亭志ん生(本名:美濃部孝蔵)6代目三遊亭圓生(本名:山﨑松尾)の二人は、満州にいた。…なんてふうに書き出すと、手に汗握っちゃう感じだが、どうもこの二人には似合わない。
  あっちにいけば食べ物はふんだんにあって、酒も呑み放題。親切なご婦人方もよりどりみどり。空襲もないから夜は眠り放題。なんてったって興行元は満鉄の子会社だからお給金がいい。これは松ちゃん行くしかないよ。
 てんで、出発したのが5月。志ん生このとき55歳、人気がようやくでてきたころ。圓生45歳、行儀がいいだけの噺家、下手な真打、なんてえらい言われようのころ。
  1か月の興行はまず成功、では帰りましょう、とはいかなかった。この時すでに戦局が深刻化、日本海にアメリカの潜水艦が出没して、通る船を沈めてるってんで、日本への船がまったくない。しょうがないから、6、7月と満州中を二人で巡業。8月になって、大連で興行中、敗戦。
  ソ連軍が攻めてくる、大丈夫だこっちにはアジア最強の関東軍がついている、いざロスケがやってくると、関東軍ははるか朝鮮のほうまで逃げていた。
  大連は日本人の避難民であふれかえり、ソ連軍は大連の内と外を封鎖。それからおよそ2年の間、圓生と志ん生はそこにいた。その頃の生活がどのようなものだったのかは、断片的に伝わっているようだ。
 しかし、2年の後、日本に帰ってきた志ん生の芸は絶頂期に向かい、鳴かず飛ばずだった圓生はすぐさま頭角を現す。このことを説明してくれそうな断片は落ちていない。
  多分にフィクションの要素が高いと思いますが、井上ひさし作:こまつ座公演『円生と志ん生』は二人のこの時の2年間を題材にしています。集英社から戯曲がでているので、終戦の日に読んでみてはどうでしょう? (別にアフェリエイトじゃありません)  

再生リスト: 5代目志ん生
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再生リスト:6代目圓生
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